STORY01:幼少期~学生時代

小学一年生で
突然
現れた症状

明るく人懐っこかった幼少期

私は、祖父が創業したタオル問屋の長男として生まれました。幼い頃は、ひょうきんで人懐っこく、近所の商店のおじさんと仲良くなって、お菓子をもらうような明るい子どもでした。4人兄弟の長兄だったので、家の中では内弁慶で、親分肌だったように思います。

大きな転機が訪れたのは、小学校1年生の時でした。近所の床屋で髪をきっていたら、突然十円ハゲがいくつもできていました。床屋さんが慌てて母を呼びに行ったのを覚えています。原因不明の円形脱毛症。小学校1年生で様々な環境が変わる中、どこか心がついて行かなかったのかもしれません。

症状は日に日にひどくなっていき、最終的には髪の毛も眉毛も一本も無くなってしまいました。母に連れられて、大学病院を転々としましたが、原因もわからず、毎週学校を休んで病院に通っても治療効果もほとんどなく、中学校を卒業する頃まで改善されませんでした。

周りの視線が気になって仕方ない

円形脱毛症は、それまで人懐っこい性格だった自分をすっかり変えてしまいました。どんな時も帽子が手放せなくなりました。教室で前の方の席になると、後ろの席に座っている人の視線が気になって仕方ありません。特に、学校外行事では「他の小学校の児童から笑われているんじゃないか」と気が気じゃありません。

自分が居ることで「一緒にいるクラスメイトにも恥ずかしい思いをさせて申し訳ない」と思い悩むことすらありました。

円形脱毛症で低くなってしまった自己肯定感は、心が揺れ動きやすい今の自分の性格を形作ったようにも思います。病気のことを忘れられるときは極端に自信があり、病気が前面に出ると極端に自信がない子どもでした。精神的な振れ幅の大きさは、今もそのままかもしれません。

勉強を
頑張ることが
自分を守る盾に

本来の自分を取り戻し
自信が持てる様になった中学時代

少しずつ自信を持ち始めたのは小学校を卒業する頃です。相変わらず髪の毛はありませんでしたが、友だちの紹介で通いはじめた個人塾の先生との相性が良く、学校の成績がぐんぐんと伸びていきました。

見た目に自信を持てずにいじけていた自分が、勉強を頑張ることで先生や友だちから認めてもらえることがわかったのです。成績が上がるにつれて、本来の自分を自信を持って出せるようになりました。

学級委員や児童会などの代表を務めたり、小規模な中学校でしたが、成績も生活態度も良かったので、2年生で在校生送辞を読み、翌年卒業生として答辞を読むなど、先生や友人からの信頼も得られていたと思います。

中学校に入学した頃から帽子をかぶることもなくなりました。その時は、勉強への自信が自分を支えてくれていたように思います。良い意味でも、悪い意味でも、勉強を頑張ることが自分を守る盾だったのです。

皆勤賞
自分で見出した
解決策

すべての自信を失った、高校生活のスタート

成績が良かったので、高校はそのまま都立の進学校に推薦入学しました。ところが、成績優秀者が集まる学校ですから、中学時代のように勉強の盾は歯が立ちませんでした。勉強での挫折から、私は全ての自信を失いました。部活動も1週間で辞めてしまいました。

結局、話ができる友だちが誰もいないような寂しい高校時代を過ごしました。朝登校してから下校するまで、誰ともひと言も話さない日が普通でした。

どんなに辛くても、学校へ行く

今思い出しても寂しく辛い3年間でしたが、唯一踏ん張ったのは3年間皆勤賞だったことです。中学も皆勤賞でしたので、計6年間、1日も休まずに学校に行きました。小学校の担任の先生から「将来学校の先生になるなら、学校は皆勤賞だよ!」と言われたことをきっかけに、どんなに辛くても学校を休むという選択肢は考えませんでした。ある意味、意地ですね。

学校では苦しい思いをしましたが、高1の夏休みには自転車で福井県にある母の実家まで自転車1人旅をしたり、高2の夏休みには他校の生徒とともに中国の高校生と交流をする16日間の船旅に参加したりしました。

意地っ張りというか、最悪の状況でも自分をつなぎとめる何かを見つけてそれだけはやり通すという姿勢は、この頃から変わらないかもしれません。状況の中で、できることを探して、自分の力量に合わせて一つずつ克服していく力、あるいは目の前の課題を乗り越えていく力を見出す良いきっかけとなった時期でした。

開放された4年間

大学での新しい出会いに救われる

将来は教員になることを考えていたので、大学は教育学部を目指しました。現役で東大と考えていましたが、センター試験の成績が振るわず、東北大学教育学部になんとか現役合格できました。

18歳、仙台での一人暮らしがはじまりました。東北大学教育学部というのは、とても小さな学部で1学年が80名ほどです。教育学・障害学・心理学を専攻する人たちは優しい人が多く、高校時代に友だち作りを失敗した自分は本当に救われました。

早速、学部内にあるバスケットボールのサークルや教育研究会というのは名ばかりの飲み会サークルに所属して、一緒に過ごす友だちがゼロから一気に増えました。まさに「大学デビュー」と言えるかもしれません。親元も離れて、後継ぎというプレッシャーからも解放され、時間を気にせず友人と遊ぶ日々の中で、心が癒されていきました。

教育学部では、英語の教員免許を取得することにしました。しかし、留学経験がなくて英会話に自信がないことや社会人経験がなくて生徒指導に自信がないことから、教員採用試験を受けることは諦めました。特に、自分は優等生タイプでしたので、教育実習に行った際、クラスにいるやんちゃな子どもたちが考えていることがつかめず、どう対応するか指導に悩んだことも一因でした。

私が大学4年生を迎える頃、創業者の祖父は80歳を過ぎ、父が2代目として会社を継いでいました。父からは、後継ぎとして戻るにしても、10年くらいは一般企業で修行をするように言われていました。そこで、円形脱毛症で苦しんでいた自身の経験から医療分野に意識が向き、就職活動をスタートさせました。

Key Message01

あの頃の自分に、「よくがんばったね」と、伝えたい

突然やってきた病気。
どうしたら良いか
分からないものに向き合い、
少しずつ自信をたぐり寄せた
自分へのねぎらい。

そして、
いつも支えてくれた家族と友人に
「ありがとう」