STORY02:コンサルタント時代

即戦力として
働くことが
求められた

跡継ぎを意識した選択

大学4年生の春、就職活動をしながら、どこかで将来は実家の跡継ぎになることを意識していました。なので、最終的に採用していただいた医薬品卸会社の最終面接で、10年後には退職する予定であること、営業職や事務職は得意ではないので人事部や経営企画室に配属してほしいことなどを伝えました。

言わなくていいことまで言ってしまったように思いますが、正直でありたいという思いや、ウソをつくこと自体に抵抗があったような気がします。大変寛容な会社だと思いますが、そのような意気がった人材でも採用していただけたことは、今でも感謝しています。

経営コンサルタントになる

半年の研修期間を経て、関係会社に出向することになります。そこでは、病院・診療所・薬局・介護施設への経営コンサルティングを提供していました。当時はコンサルタントが6名ほどのベンチャーのような会社で、入社1年目の私もすぐに即戦力として働くことが求められました。

経営や会計についての勉強が不足していたので、毎日上司や先輩に叱られながら提案書を書いていたのを覚えています。また、簿記や経営に関する書籍を読みあさっていたのもこの時期です。初めて担当させて頂いたのは、秋田県大曲市で開業された先生でしたが、とても可愛がっていただきました。打ち合わせの後は、ご自宅にご招待いただき、奥様の手料理と秋田の日本酒で宴会をするのが恒例行事でした。

「全力くん」
と呼ばれて

朝7時から夜11時まで働く暮らし

就職して最初の数年間は、病院から独立開業されるドクターの開業支援チームに席をおきました。開業するためには、市場調査に始まり、資金計画の立案、融資、設計建築計画や医療機器の配置、人の採用や研修まで多岐に渡ります。しかし、日々の診療で忙しいドクターにとっては経験の少ない分野になります。そこを私たちがワンストップでサポートし、開業後は親会社との取引をお願いするという流れでした。

今考えれば、大卒で管理職の経験もない中で、よくあれだけ偉そうにコンサルタントができたなと思いますが、その頃は必死で勉強したり資料を作ったりしながら、医師の開業を成功させたいと奮闘していました。忙しい時期は、朝7時から夜11時まで会社にいるような生活を送っていました。

クリニックの開業支援を数年経験した後、病院の経営支援、薬局の開業・経営支援など、徐々に業務の幅も広がっていきました。この頃の働き方から、周囲からは「全力くん」と呼ばれていました。また、とにかく認めてほしいという気持ちが強くありました。

仙台で
一旗揚げたい

憧れの先輩との出会い

入社5年目ごろ、面白い出会いがありました。トップ営業マンとして顧客からも社内の幹部からも絶大な信頼を得ている先輩が隣のデスクになりました。1年余り一緒に働き、数件のクライアントを2人で担当させていただきました。仕事をしながら、自分の営業力のなさを痛感していた折で、何か一つでも学んでやろうと躍起になっていた時期です。仙台で一旗揚げてから、東京に凱旋しなければならないとの気負いがあったのだと思います。

知らず知らず、無理が積み重なっていた

彼は、顧客との距離の取り方が絶妙で、信頼関係の作り方がとても上手です。多様な情報網から、顧客が必要な情報を適切なタイミングで提供していました。彼に惹かれ、兄貴と呼ぶ間柄になりました。特に、夜の宴会のコーディネートが抜群に上手でしたので、私も同席する機会が増えました。とっても楽しかった印象が強いのですが、一方で、私自身は元々それほどお酒に強くなく、体力もない中で、無理をしてしまったのかもしれません。

彼との縁から、仙台地域で12月の風物詩になっているイベントに実行委員会のボランティアとして参加するようになりました。ボランティアのほとんどは経営者が多い中、一般企業の社員が参加するのは稀でしたので、むしろ多くの先輩に可愛がっていただきました。実行委員会の活動はとても楽しかったのですが、秋口からの準備では有給休暇をとってボランディア活動に参加しなければならず、知らず知らずの間に無理が重なっていました。

無理をしてしまったのは、誰かに認めて欲しいという思いがとても強かったから。期待してくれている人たちの力になりたい、承認されたい、成果をあげたい、という思いばかりが先行していたように思います。

バーンアウトして
学んだこと

悲鳴を上げた心と身体

全力で働き過ぎました。仕事にも全力、ボランディアにも全力、憧れの先輩との夜の宴会にも全力で参加しました。全力を出せば出すほど、脚に力が入らなかったり、思考が堂々巡りをしたりと、体も心も悲鳴をあげていましたが、その声は無視し続けていました。跡継ぎとして東京に戻るまでに、仙台でひと旗あげなければならない、という意識が強かったのだと思います。

だんだんと疲労と不摂生が積み重なり、肝機能や血糖値の数値が悪化、毎朝起き上がれないほど体調が悪くなりました。仕事が進まない悩みで眠れない日が続き、さらに仕事が進まないという悪循環から抜けられない。その結果、体調不良によりドクターストップがかかり、自宅療養を余儀なくされました。20代で「全力くん」は、バーンアウトしてしまったのでした。

それでも職場に戻れたのは、たくさんの同僚が支えてくれたおかげでした。体調を崩して学んだことは、全力を出してはいけないということでした。故障者リスト入りしたことのあるピッチャーは、無理をしないのと同じように、私も働きすぎるとうまくいかないのだと思います。

もう少し力を抜いて、もう少し自分の限界を知っていたら、また弱音を吐く人や場所があれば良かったのではないかと今では思います。この経験は、弱い自分を知る機会にもなりました。おかげで、周りで弱っている人の目や雰囲気から感じ取り、寄り添えるようにもなったと思います。

配属先が決まる予定だった、3月11日

医師や上司と相談し、コンサルタントとしての仕事復帰は現在の体調では負荷が大きいとの判断で、実家に戻り、東京にある支店に配属して復帰を目指すことになりました。部署が決まる予定だったのは、2011年3月11日。東日本大震災が東北地方を襲いました。

自宅療養中で東京にいた自分は、テレビで惨状を見ることしかできませんでした。東北の海岸線は、コンサルタント時代に多くの顧問先や営業支店で出向いた経験があり、よく知っている景色です。街並みが水に飲まれていく風景を前に、言葉を失いました。何ができるかを考えてもピクリとも動くことができず、とにかく、無力な自分を痛感しながら3月11日以降を憂鬱な気分で過ごしました。

そんな中でしたが、「4月1日から東京の支店へ配属になった」と上司から連絡があったのは、震災から1週間後のことでした。

Key Message02

故障者リスト入りは、恥ずかしいことじゃない

高いパフォーマンスを出すには、
同じくらい
メンテナンスが大切。

故障は
誰にでも起こりうるから、
生きる種目を
短距離走から長距離走に変えて、
ゆっくりマイペースで。